
「中国行きのスロウ・ボート」★★★★★
村上 春樹 (著)
小さなショック、僅かな心の震えが時折やってきては何事もなかったように去って行く。
日常に帰ればこのことは忘れてしまう。
でもそれはたしかにあったのだ。
寂しいけれど、励まされる村上春樹の非現実な内面世界。
「シドニーのグリーン・ストリート」で羊男に再会した。
彼女はとても熱心に働いていた。
僕もそれにつられて熱心に働いたが、
彼女の働きぶりを横で見ていると、
僕の熱心さと彼女の熱心さは
まったく質の違うものであるような気がした。
つまり、
僕の熱心さが
「少なくとも何かをするのなら、熱心にやるだけの価値はある」
という意味での熱心さであるのに比べて、
彼女の熱心さは
もう少し人間存在の根元に近い種類のものだった。
うまく説明できないけれど、
彼女の熱心さは、
彼女のまわりのあらゆる日常性が
その熱心さによって辛うじて支えられているのではないか
といったような奇妙な切迫感があった。
彼女はその日の午後、
三十分ばかり、
一種のパニック状態におちいった。
彼女がそんな風になったのははじめてのことだった。
最初はほんの小さな手違いだったのだが、
それが彼女の頭の中で少しずつ大きくなり、
やがてとりかえしのつかない巨大な混乱へと姿を変えた。
そのあいだじゅう彼女は一言も口をきかずに、
その場にじっと立ちすくんでいた。
彼女の姿は僕に、
夜の海にゆっくりと沈んでいく船を思わせた。
僕は作業の一切をストップし、
彼女を椅子に座らせ、
握りしめた指を一本ずつほどき、
熱いコーヒーを飲ませた。
(中国行きのスロウ・ボート)
母親は男の子をちらりと眺めてから面倒臭そうにため息をついた。
母親はきっと疲れているんだろう、
と僕は想像した。
月賦の支払いや歯医者の請求書やあまりに速く進みすぎる時間が
夕暮の彼女をすっかり押し潰してしまったのだろう。
(貧乏な叔母さんの話)
まわりの友人たちも、
たいたいが同じような年齢だった。
27、28、29……死ぬには何かしら不適当な歳だ。
詩人は21で死ぬし、
革命家とロックンローラーは24で死ぬ。
それさえ過ぎちまえば、
当分はなんとかうまくやっていけるだろう、
というのが我々の大方の予測だった。
伝説の不吉なカーブも通り過ぎたし、
照明の暗いじめじめしたトンネルもくぐり抜けた。
あとはまっすぐな六車線道路を
(さして気は進まぬにしても)
目的地に向けてひた走ればいいわけだ。
「僕はね、夜中にものを考えるのを止したんだよ」
と彼は言った。
「どうやって?」
「暗い気分になると掃除をするんだよ。
掃除機をかけたり、
窓を磨いたり、
グラスを拭いたり、
机を動かしたり、
シャツにかたっぱしからアイロンをかけたり、
クッションを干したりさ」
「うん」
「そして十一時になると酒を飲んで寝ちゃうんだよ。
それだけさ。
朝起きて靴下をはくころには大抵のことは忘れてる、
さっぱりとね」
「ふうん」
「夜中の三時には人はいろんなことを思いつくもんさ。
あれやこれやとね」
「そうかもしれない」
「夜中の三時には動物だってものを考える」
「良い世界には良い音楽なんてないのよ」
と彼女は言った。
「良い世界の空気は振動しないのよ」
「でもリクエストって嫌よ。
なんだか惨めな気持になるんだもの。
図書館で借りてきた本みたいにね、
始まった途端にもう終る時のことを考えてるのよ」
(ニューヨーク炭坑の悲劇)
あなたの手紙は実に魅力的なものでした。
文章、筆跡、句読点、改行、レトリック、
なにもかもが完璧です。
優れている、
ということではありません。
ただ完璧なのです。
僕は同時にふたつの場所にいたいのです。
これが唯一の希望です。
それ以外には何も望みません。
僕はコンサート・ホールでオーケストラを聴きながら、
ローラースケートをしたいのです。
僕はデパートの商品管理係でありながら、
マクドナルドのクォーター・パウンダーでもありたいのです。
僕は恋人と寝ながらあなたと寝たいのです。
僕は個でありながら、原則でありたいのです。
(カンガルー通信)
記憶というのは小説に似ている、
あるいは小説というのは記憶に似ている。
僕は小説を書きはじめてからそれを切実に実感するようになった。
記憶というのは小説に似ている、あるいは云々。
どれだけきちんとした形に整えようと努力してみても、
文脈はあっちに行ったりこっちに行ったりして、
最後には文脈ですらなくなってしまう。
なんだかまるでぐったりした子猫を何匹か積みかさねたみたいだ。
生あたたかくて、しかも不安定だ。
そんなものが商品になるなんて
——商品だよ
——すごく恥ずかしいことだと僕はときどき思う。
本当に顔が赤らむことだってある。
僕が顔を赤らめると、
世界中が顔を赤らめる。
(午後の最後の芝生)
こんな風にやっていくのは嫌だ、と彼女は言った。
こんな風に?
週に一度のデートとセックス、
また一週間がたって、
またデートとセックス
…いつまでこんな風にやってくの?
彼女は泣いた。
僕は慰めたが、うまくいかなかった。
時計は八時二十分を指している。
しかしいずれにしても思い悩むほどのことでもない。
誰かが僕に会いたがっている。
会えばいいのだ。
(土の中の彼女の小さな犬)
内容(「BOOK」データベースより)
青春の追憶と内なる魂の旅を描く表題作ほか6篇。著者初の短篇集。